前置きが少し長くなります。
武田信玄率いる武田家滅亡のカウントダウンは、信玄が諏訪家を滅ぼした時から始まっていました。
諏訪家を滅ぼした信玄は、諏訪家の諏訪御料人を側室に迎え、生まれた子供が武田勝頼、信玄の四男でした。
勝頼は当初高遠城を治めていましたが、三人の兄に色々問題があり、結局勝頼が武田家を継ぐこととなりました。
しかし、武田家も信玄が他界した後は内紛が多く、特に諏訪家の血を引く勝頼への風当たりは強く、更に戦国時代ゆえ、諸国大名との同盟/決裂に失策も重なり、武田家はどんどん衰退していきます。
武田家家臣 小山田信茂の進言で、勝頼は信茂の城 岩殿城を目指すこととなったのですが、途中で信茂が勝頼を裏切り、岩殿城への入場を阻止します。
勝頼一行は、現在の山梨県甲州市大和町田野で行手を阻まれ潜伏していましたが、敵方の織田信忠の軍に見つかり、最後を覚悟します。
四郎作古戦場は、武田家家臣 小宮山内膳が主君(勝頼)を守るため、日川下流で織田軍を迎え撃った古戦場です。
この時武田軍勢は僅か数十人。
この日川でそんな戦いがあったとは想像もできない長閑な場所でした・・・。
四郎作古戦場から、バイクでほんの2〜3分のところに、この鳥居畑古戦場が有ります。
こここそ、勝頼が最後の戦いを行った場所。
しかし、この時勝頼は飢えと疲労でまともに太刀を扱えず討死したとされています(諸説あります)。
古戦場碑の周りは、こんな長閑な場所でした。
ここにいて感じたことは、この戦に携わった誰もが平和な時代に生まれたかっただろうなということでした。
次は、勝頼の眠る景徳院に向かいます。
今回、珍しくアカデミックな内容になっています(笑)